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「私……キスしたんだ……」
* * *
夢の中にいるようで、頭がふわふわしていた。
――胸の鼓動がおさまらない。
泳いだ後の様に重い体。脱力感が半端ない。
それなのに足取りは軽やかで、そのまま宙に浮いてしまいそうな。 不思議な感覚だった。 赤澤花恋〈あかざわ・かれん〉。高校2年の17歳。夏休み前、終業式の今日。
いつものように幼馴染の同級生、黒木蓮司〈くろき・れんじ〉と寄り道をした。子供の頃からずっと一緒だった二人。名前に「レン」が入っている二人は、互いのことを「レン」と呼び合い、その仲睦まじい姿は近所でも有名だった。
近所にある人気のない神社。
付き合い始めて半年になる二人は、学校帰りにいつもここに来ていた。 他愛もない日常の出来事や愚痴を話し、互いの気持ちを共有する。 とは言え、話すのはいつも恋〈レン〉の方だった。 無口な蓮〈れん〉は恋の話を聞き、静かに笑ってうなずいていた。しかし今日。
蓮の様子が少し違っていた。 いつもの様にオチのない話を続ける恋も、その様子に気付き声をかけた。「ちょっと蓮くん、聞いてる?」
「う、うん、聞いてるよ」
「ほんとに? だったら京ちゃんが何したか言ってみてよ」
「……ごめん、分からない」
「ほらー。もう、どうしちゃったのよ。今日の蓮くん、ちょっと変だよ。もしかして具合でも悪い?」
「そんなことは」
「ほんとに?」
そう言って蓮の額に手を当てると、少し熱く感じた。
「熱、ある? 帰る?」
心配そうに蓮の顔を覗き込む。
その時だった。 額に当てられた手を蓮がつかみ、そのまま握り締めた。「……蓮くん?」
蓮は大きく息を吐くと恋に向き合い、肩に手をやった。
いつも物静かで穏やかな蓮。
ずっと想ってきた初恋の相手。 半年前、泣きそうな顔で告白してくれた、気弱でかわいい幼馴染。 しかし今の蓮は、何かを決意したような強い視線で恋を見つめていた。――こんな蓮くん、見たことがない。
ゆっくりと蓮が近付いてくる。その時初めて、恋は何をされるのかを悟った。
夢にまで見た、蓮とのキス。
人気のないこの神社に来ていたのも、その為だった。
いつなんだろう。今日だろうか、明日だろうか。 ずっと思っていた。 しかし女の自分から言える訳がない。 こういうことは男からするものなんだ。そう思い、ずっと待っていた。ついに、ついに蓮くんとキス、するんだ……
恋が静かに目を閉じる。
蓮の息が間近に迫る。そして。
蓮の唇の感触が伝わってきた。
その瞬間、恋は全身に電気が走るような感覚を覚えた。
待ち望んでいた瞬間。 それなのに心の中には、満足感と同時に「怖い」という気持ちが生まれていた。 歯がカチカチと音を立てる。――初めての経験って、こんな感じなんだろうか。
しかしやがて、その感情は静かに消えていった。
「……」
頬に伝わる一筋の涙。
それは恋の中に生まれた、満ち足りた幸福感だった。ああ、私は幸せだ。
もう何もいらない。 私には蓮くんがいる。 それだけでいい。唇が静かに離れる。
恋がゆっくりと目を開けると、涙のせいで蓮の顔が歪んで見えた。 その時初めて、自分が泣いていることに気付いた。「あははっ……ごめんね、私ったら」
そう言って涙を拭う。
「……ご、ごめん……」
涙に動揺した蓮が、囁くようにそう言った。
「え? あ、あははっ、何謝ってるのよ。そんなんじゃないから」
蓮の手を握り、恋が微笑む。
しかし蓮はいつもの様にうつむくと、小声でもう一度「ごめん……」そう言った。* * *
「きゃーっ!」
枕に顔を埋め、身をよじらせる。
体を振る度に、腰まである長い髪が揺れる。 あの時のことを思い返すと、体が燃えるように熱くなった。 足をばたつかせ、枕に顔を押し付け、何度も「きゃーっ、きゃーっ」と声を上げる。「……」
しばらくしてようやく落ち着いた恋は、枕を抱き締めたまま起き上がった。
「蓮くん、蓮くん……」
蓮とのキスは、想像していた以上に恋の心を乱していた。
明日から夏休み。
学校があれば毎日蓮くんと会える。一緒に登校出来る。 しかし休みになると当然、会う機会は減ってしまう。 それは嫌だ。 毎日蓮くんと会いたい。 私にはもう、蓮くんしかいない。蓮くんと一緒にいたい。 蓮くんだって、きっとその筈だ。 そうだ、毎日一緒に宿題をしよう。 そしてその後で遊びに行く。うん、これなら自然だ。そんなことを考えていると、口元が緩んできた。
「ふっ……ふふふっ」
二人きりの部屋で勉強会。そして勉強が終わったら……
妄想が止めどなく広がり、恋はその度に枕を抱き締めて声を上げた。* * *
「え? 何の音?」
妄想が広がる恋の耳に、何かを叩く音が聞こえた。
慌てて枕を置き、耳を澄ませる。 音は窓の方からしていた。「……何の音? ここ、二階なんだけど……」
ゆっくりと立ち上がり、窓の方へと進む。
そして小さく息を吐くと、勢いよくカーテンを開けた。「……え?」
窓の外にいたもの。
それは白い子猫だった。「……子猫? どうして子猫がこんな所に……あ、ひょっとしてあなた」
そう言って窓を開けると、子猫はかわいい鳴き声をあげて部屋に入ってきた。
「やっぱり! あなただったのね」
頭を撫でると、子猫は嬉しそうにもう一度鳴いた。
「元気になったみたいだね。よかった」
「ありがとう、恋ちゃん」
「いいのよ別に。それよりこんな時間にどうしたの?」
「恋ちゃんにどうしても、お礼がしたくてね」
「お礼だなんて、そんなのいいってば。気にしないでよ」
「そんな訳にはいかないよ。受けた恩はちゃんと返さないとね」
「恩って、ふふっ、おませな子猫ちゃんだね。困った時はお互い様で………………え?」
「どうしたの、恋ちゃん」
「……」
「恋ちゃん? おーい、聞こえてる?」
恋が目をパチパチさせて子猫を見る。
そして叫んだ。「ええええええええっ? 猫が、猫が喋ってるうううううっ!」
二階建の古びた文化住宅。 それが恋〈レン〉の初めて見た光景だった。「……何て言ったらいいのかな。中々趣のある建物で」 隣にあるコインランドリーの窓ガラスで、自分の姿を確認する。 制服姿だった。「ま、まあ、これはこれで……10年後の蓮〈れん〉くんへのご褒美ということで」 そう言って苦笑いを浮かべる。 その時、ミウの声が聞こえた。「無事、到着したみたいだね」「ミウ? よく分からないけど、ここが10年後の未来なんだよね。今とあんまり変わってない感じだけど、まあ10年ぐらいだったらこんな物なのかな」「それもあるんだけど、説明してなかったね。ここでの恋ちゃんの目的は、あくまでも未来の君たちを見ること。だから恋ちゃんのいる時代になかった物とか、変わってる物。そういうのは自然と受け入れられるようにしてるんだ。例えば携帯電話とか、かなり変わってるよ。でも恋ちゃんは、それを当たり前に使うことが出来る。その方が、目的を果たす上でいいと思ったからね」「そうなんだ。色々気を使ってくれてありがとね。それでミウ、今どこにいるの」「僕のことは気にしないで。さっきも言った通り、僕はずっと恋ちゃんを見守っている。困ったことがあったらサポートもする。でも基本、恋ちゃんの前には現れないつもりだから」「そうだったね。私ってば、もう忘れてたよ」「あははっ。それと恋ちゃん、僕と話す時、声を出す必要はないからね」「そうなの?」「うん。僕の声、恋ちゃんの頭に直接響いてると思うんだ。恋ちゃんも僕と話す時、頭に思い浮かべるだけで大丈夫だから」「……またすごいことを聞いたような……でも分かった。ミウがそう言うんならそうするね」「ありがとう、恋ちゃん」「それでミウ、ここはどこなのかな。私の街じゃなさそうだけど」「蓮くんと会いたいって言ってたからね、一番早く会える場所に連れて
「……」 動かないミウを見て、恋〈レン〉は少し心配になってきた。「ええっと、これって……まさか死んじゃった、とかじゃないよね」 そうつぶやき見守っていると、やがてミウの体が小さく動いた。「あ、動いた……ミウ? 大丈夫?」 ミウが顔を上げ、一声鳴く。「いい感じの時間軸があったよ。今から10年後」「10年後、27歳かぁ……あ、でもちょっと待って。ミウってば今、何をしてたの?」「恋ちゃんの希望に沿える未来を探す為に、別の時間軸の僕と意識をリンクしてたんだ」「リンク?」「簡単に言えば、未来を見てきたってこと」「未来をって……すごいことをさらっと言われたような」「あははっ、深く考えなくていいよ。とにかく恋ちゃんの望みに応えられる、ふさわしい時間軸だと思う」「そうなんだね。ありがとう、ミウ」「それでね、行く前に説明しておくことがあるんだ」「うん。まずは着替えよね」「それは大丈夫、着替えなくても問題ないから」「そうなの? 私、寝間着のままで未来に飛ぶの? 流石にこのままじゃ、恥ずかしいと言うか何と言うか」「恋ちゃんは今から未来に行く。でも厳密に言えば、恋ちゃん自身が行く訳じゃないんだ」「よく分からない」「簡単に言えば、恋ちゃんの姿と意識、情報をコピーして10年後の世界で再構築するんだ。だから今の恋ちゃんの体はここに残るし、服装は……僕がうまくしておくよ」「また……すごいことをさらっと」「難しいだろうから理解しなくていいよ。とにかく恋ちゃんは、10年後の世界に行けるんだ」「うん、ミウがそう言うんなら分かった」「ありがとう。それで向こうに着いてからのことなんだけど、恋ちゃんの姿を認識出来るのは二人、未来の恋ちゃんと蓮〈れん〉くんだけだから」「二人だけ?」「そうでないと、ややこしくなっちゃう。突然10年前の恋ちゃんが現れたら、他の人も驚くだろ?
「恋ちゃんと彼氏くんの未来が見たいと」「うん、そう」 ミウを見つめる恋の瞳は、キラキラ輝いている。「私たちってね、子供の頃からずっと一緒だったんだ。親も仲がいいし、お互いの家にお泊まりとかもよくしてたの。 私はずっと、蓮〈れん〉くんのことが好きだった。蓮くんってね、いつも本ばっかり読んでいて、友達もいなかったんだ。外で遊ぶこともあんまりなかった。 でもね、私がお願いしたら一緒に遊んでくれるの。それがすごく嬉しくて……いつの間にか蓮くんのこと、好きになってた。 いつか付き合いたいって思ってたけど、でもほら、こういうのって女の方から言うのも恥ずかしいじゃない? だから私、ずっと待ってたの。蓮くんに告白されるのを」 瞳を爛々と輝かせてまくし立てる恋に、ミウは苦笑した。「半年前、ついに願いが叶った。蓮くんが告白してくれたの。そりゃもう、あの蓮くんだからね、分かるでしょ? 顔真っ赤にして、何言ってるのか聞き取れないぐらいぼそぼそと、なんだけどね」 いやいや僕、蓮くんのこと知らないし。ミウが心の中で突っ込んだ。「でもね、それでも嬉しかった。蓮くんが勇気を振り絞って告白してくれた。涙まで浮かべて、必死になって私に伝えてくれた。 その姿を見てね、私、ちょっとだけ後悔したの。こんなに大変なことなんだったら、私の方から告白しちゃえばよかったって。男だとか女だとか言う前に、自分の気持ちに正直になっていればよかったって」「まあ一理あるかな。人間の社会ではそういう役割、男の方がするみたいだけど、女の方から求愛する生物もいることだし」「でも嬉しかった。だから私、その場で蓮くんに抱き着いちゃったの。そして『私でよければお願いします』って言ったんだ」 そう言ってまた枕に顔を埋め、「きゃーきゃー」と声を上げる。「……その時ね、蓮くん言ってくれたんだ。『僕は恋を大切にする。恋が嫌がることは絶対にしない』って。それでもう、私の心臓は打ち抜かれた訳なのよ」「そして今日、その蓮くんとついにキスをした」「きゃー! きゃー!」
気が済むまで叫んだ恋〈レン〉が、何度もまばたきしながら子猫を凝視する。 この子猫……今、喋ったよね。 そんな恋を見て、子猫はもう一度かわいく鳴いた。 * * * 遡ること数時間前。 今日こそ蓮〈れん〉くんと。 そう意気込みながら、いつもの神社に着いた時だった。 恋の大きな瞳に、軒下で震えている子猫の姿が映った。「どうしたのかな、あの子」 駆け寄った恋は、子猫をそっと抱き上げた。「大丈夫? 子猫ちゃん、どうしたの?」 恋の問い掛けに、子猫は微かに目を開くと、弱々しい声で鳴いた。「この子震えてる……蓮くん、どうしよう」「呼吸が弱くなってるし、病気なのかも。病院に連れて行った方が」「だよね……でもその前に」 恋は子猫を膝に置くと、買っておいたミルクを掌に注いだ。「ひょっとしたらこの子、お腹が空いてるのかも知れないから」 そう言って手を向けると、子猫は鼻をひくひくさせた。そして口を開けると、舌で掌のミルクを舐めだした。「蓮くん! 見て見て! やっぱりこの子、お腹が空いてたんだよ!」 恋が嬉しそうに声を上げる。その笑顔に蓮は赤面し、「う、うん……そうみたいだね……」そう言ってうつむいた。 ミルクを舐める舌の動きが、力強くなっていく。そして最後の一滴を舐め終わると、ゆっくりと体を起こして体を振った。「やった! 子猫ちゃん、復活した!」 歓喜の声を上げて子猫を抱き締める。「よかったね、元気になって」 そう言ってもう一度膝の上に置くと、子猫は恋の手を舐め、元気よくジャンプして地面に降り立った。 そして二人を見てもう一度鳴くと、その場から走り去っていった。「行っちゃったね……でもよかった」 子猫の行った先を見つめながら、恋が微笑む。 その笑顔に蓮は見惚れ、そして静かに決意したのだった。
「私……キスしたんだ……」 * * * 夢の中にいるようで、頭がふわふわしていた。 ――胸の鼓動がおさまらない。 泳いだ後の様に重い体。脱力感が半端ない。 それなのに足取りは軽やかで、そのまま宙に浮いてしまいそうな。 不思議な感覚だった。 赤澤花恋〈あかざわ・かれん〉。高校2年の17歳。 夏休み前、終業式の今日。 いつものように幼馴染の同級生、黒木蓮司〈くろき・れんじ〉と寄り道をした。 子供の頃からずっと一緒だった二人。名前に「レン」が入っている二人は、互いのことを「レン」と呼び合い、その仲睦まじい姿は近所でも有名だった。 近所にある人気のない神社。 付き合い始めて半年になる二人は、学校帰りにいつもここに来ていた。 他愛もない日常の出来事や愚痴を話し、互いの気持ちを共有する。 とは言え、話すのはいつも恋〈レン〉の方だった。 無口な蓮〈れん〉は恋の話を聞き、静かに笑ってうなずいていた。 しかし今日。 蓮の様子が少し違っていた。 いつもの様にオチのない話を続ける恋も、その様子に気付き声をかけた。「ちょっと蓮くん、聞いてる?」「う、うん、聞いてるよ」「ほんとに? だったら京ちゃんが何したか言ってみてよ」「……ごめん、分からない」「ほらー。もう、どうしちゃったのよ。今日の蓮くん、ちょっと変だよ。もしかして具合でも悪い?」「そんなことは」「ほんとに?」 そう言って蓮の額に手を当てると、少し熱く感じた。「熱、ある? 帰る?」 心配そうに蓮の顔を覗き込む。 その時だった。 額に当てられた手を蓮がつかみ、そのまま握り締めた。「…&hellip